スマイルドーナッツの雑記

すべての人にとって、充実した 楽しい 世界を作るために

日本を救う経済理論を考える

今の日本の経済政策はそもそも正しいのか、素人の私には分かりません。しかし、分からないからと言って、放棄することもできませんでした。経済政策における主張の派閥として最近は、リフレ派、MMT(現代貨幣理論)の活用派が有名です。今回は2001年のアルゼンチンや2015年のギリシャなど、デフォルトの例を挙げながら、それぞれの視点で考えていきます。

■経済学のジャンル

・古典派経済学、近代経済学・・・ミクロ経済学として体系化。マーケットの自由意思を尊重する。

ケインズ経済学・・・マクロ経済学として体系化。ニューディール政策のような政府主導を尊重する。

と大別されます(マルクス経済学を除く)。まずは、ケインズ系の流れを汲む経済理論であるMMTの活用派や、リフレ派にスポットを当てながら経済政策を考えていきます。

■リフレ派的に財政破綻を考える
1980年代から「借金1000兆円、国民一人当たりに直すと800万円になる。次の世代にそのつけを回してはならない」というように借金を返すためには、増税が必要という話を財務省は繰り返してきました。

これは本当の話なのでしょうか。

政府債務残高は1024兆円(2019年3月末時点)で、その内440兆円を日銀が保有しています。簡単に言うならセブン&アイがセブンから借金するようなもので、返済の必要がないということです。親会社である政府の負債と子会社である日銀の債権は、グループ決算で相殺されます。残りの約550兆円の国債は、金融機関などが保有しており全額返済は金融機関の崩壊を意味します。
▼債権と債務の定義

債権とはある特定の人に、ある特定の行為、給付を請求することができる法定権利です。そして債務とはその反対に、ある特定の人へ、ある特定の行為、給付を提供する義務を表す言葉です。 引用:wiki

▼リフレ派からみた政府債務の限界
例えば、アルゼンチンのデフォルトは、2019年の対GDP比対外債務61.8%であることを考えます。日本の場合、政府債務の43%(2019年3月末,440兆/1024兆)は日銀です。また、政府は日銀に借金していますが、日銀は政府の子会社です。

政府債務が5000兆円になりインフレ率が1000%におよぶと問題になる可能性があります。インフレ目標2%以内で出動する場合、政府の借金が5000兆円におよぶまでに数十年かかるからです。日本銀行券を誰も受け取らなくなるほど信用が落ちた場合、日銀は破綻するかもしれませんが、現実的ではないと聞きます。

これは受け売りですが、リフレ派の計算によると、5000兆円は厳しいが、300兆は大丈夫という話があります。IMFの2018の財政モニターによると日本の準債務は0と聞きます。
これらを導きだす数式の違いがMMT活用派との違いです。高橋洋一先生いわく、MMTでは政府は自国通貨を無制限に発行できるので政府債務が増えても『問題がない』とするのに対して、リフレ派は数式モデル(①ワルラス式②統合政府③インフレ目標)に基づいていると主張しております。
https://diamond.jp/articles/amp/202487?page=2
しかしMMT理論活用派の方が、前提なしで『問題ない』と主張しているところを、日本では見たことがありません。

■リフレ派とMMT活用派の違い

主張する学者の個人差はありますが、数式以外にも代表的な違いがあります。

リフレ派によると、『実質金利名目金利−予測インフレ率』から予測インフレ率を高めれば、実質金利が下がりデフレ脱却が可能と考えられてきました。

その点、一般的なMMT活用派の前提は、デフレーションGDPデフレギャップを解消することを重視します。方法は、インフレ率2%の金融緩和と、財政出動をセットにしたパッケージです。ここが金融緩和を重視するリフレ派との違いです。

財政破綻MMT的に考える

財政破綻を日本国債のデフォルトと定義する場合、通常の運営で破綻しないと考えます。基本的にデフォルトは、ブラジルやアルゼンチンのように対外債務によっておこります。

例えば、ユーロを発行できるのは、欧州中央銀行です。日本は「自国通貨建て」なので、「ユーロ建て」のギリシャと同じように考えることはできません。また、日本は対内債務がメインで、円は変動相場制であるため、デフォルトは考えにくいです。以下に理由を示します。

①対外純債権国であるため・・・負債残高も増加していますが、資産残高ほどではありません。
②経常収支が黒字であるため・・・「国は赤字」でも「経常収支は黒字」と言えます。 

③政府の発行する国債が円建てであるため

MMTでよく聞く話の箇条書き

・デフレは貨幣現象ではなく総需要の不足と考える ・金を無限に刷れるのではなく物価目標2%にする ・現在は金本位制度ではない ・インフレは20年以上おこっていない ・貸借対照表(バランスシート)のように、負債と債権は一致する ・負債が増える度に破綻すると言われ続けているが、実際には破綻していない

また、信用問題について考えます。日本は税金を円で徴収しております。このため、30年前と比較し膨れあがった国債発行残高をみても、円以外を使わないと思います。

ハイパーインフレについて

一般的に、主要中央銀行の独立性により、インフレ率2%のような物価の安定を目指し、自行の財務基盤の健全性を維持する金融政策を行っていると考えられています。このことからハイパーインフレは、基本的にはおこらないと思います。しかしその一般論が覆る可能性がありますので、後述します。

▼有名なハイパーインフレの定義

①フィリップ・ケーガンの定義ではインフレ率が毎月50%を超えること。すなわち1年後の物価が129.75倍になる場合
国際会計基準の定義では、3年間で累積100%以上の物価上昇になる場合

基本的にハイパーインフレは戦後の生産手段、インフラ、船・建物の破壊や、敗戦賠償による通貨信用の失墜、経済制裁による国内の物資不足、経済市場の信認の失墜のような極端なケースがほとんどです。戦後の先進国において、財政赤字の拡大によるハイパーインフレはありません。

日本の国債発行による戦後インフレも同様で、コロナの場合は生産手段以外は戦後ほどではないので、財政出動はインフレ率をコントロールすればハイパーインフレがおこる可能性は低いと思います。コロナ前の国債発行による日銀の国債買い取りでも、インフレはあまりおこりませんでした。国債発行しても国民の購買意欲は上がらず経済の循環がおこらないと、インフレはおこりにくいと考えます。

▼考えられる可能性

あくまで可能性ですが、

①政府が意図的に物価を100~1000倍にして、1000兆円の債務を相対的に下げる可能性は、今の財務省だと考えにくい。
②日銀が通貨を発行して円が暴落した場合の円信用を考える。今はコロナ後の回復が円ドルユーロの信用へ大きく関わる可能性が高い。

GDPデフレーター

そもそもGDPデフレーター(名目GDP/実質GDP×100)が民主党時代の100%以下から、2019年で103.3%になりデフレを脱却している、という話を聞いたことがあります。

個人的には言い過ぎに思えますが。2009年のリーマンショック、2011年の東日本大震災、2020年のコロナパンデミックなど、現実の事象とGDPデフレーターの関連性を追うことで、政策の評価がより詳細になると思います。引き続き調査していきます。

■そもそも政府の財政出動とは

個人の視点では、収入単位でお金がなければ節約することが正しいと思います。しかし国や企業などのマクロ単位で見たら、投資・消費が収入となります。最初の消費のためのお金はどこから生まれるかを考えます。

国債発行で、政府が市中銀行から日銀当座預金を借りる
②政府が政府小切手で支出する
③政府小切手が市中銀行に持ち込まれ、銀行預金が発行される
市中銀行が政府小切手を日銀に持ち込み、新たな日銀当座預金が発行される 引用:

というプロセスを辿ります。このように国が財政出動を行い、税で取り立ててお金を還流させます。

■リフレ派やMMT活用派の前提が崩れる可能性

積極財政派と緊縮財政派という二項対立ではなく、そもそも貨幣の介入のみで、根本原因に向き合うことは難しいという指摘があります。債務が膨張しても、経済は成長していないことがあります。お金を刷るよりもお金自体は世に溢れているから、相対的貧困層に分配することが重要かもしれません。そもそも論でいうなら、産業構造の斬新的な改革が必要です。また、
①緊縮は、金融政策や民間債務の膨張(リフレ)など、マーケットの資金流入の増加は歓迎する
②積極は、国家による債務の膨張を歓迎する
これら2つは中央銀行の介入を加速させます。最初に、主要中央銀行の独立性により、インフレ率2%のような物価の安定を目指し、自行の財務基盤の健全性を維持する金融政策を行っており、ハイパーインフレは基本的にはおこらないと記載しました。しかしその前提が覆る可能性を考えます。

投資と金融の関係性を考えます。日銀の関与による、見せかけの株価上昇による投資の活性化など、社会の不安定化が懸念されます。日銀の30兆(2020年時点)におよぶETF買いは、金融緩和のように一部お金が分配される側面もありますが、バランスシートのさらなる悪化が懸念されます。日銀の独立性や中長期的安定性の確保をしない方向に進み、信用することが難しくなっていると感じます。

■インフレが根本解決にならない可能性

ケインズ系の経済理論でありがちな、貨幣価値の低減を人為的におこすことで、むしろ格差を広げる可能性を考えます。インフレ率のコントロールで、平均資本収益を低減させるという話を聞きます。しかし平均資産価格は、消費者物価に比例する傾向が歴史的にみられます。富裕層は財務管理によって資産のリスクヘッジが可能なため、相対的にダメージを受けないことがあります。

■最後に
現政府はプライマリーバランス黒字化目標に向けて動いています。 しかし今のところは、理論的に否定することも肯定することもできていません。まだまだ勉強不足を痛感します。

現状、緊縮財政中に GDPデフレーター(名目GDP/実質GDP×100)1.5%と名目GDP3.5%成長を同時に達成するための方法は『借金をしてでも投資する国民』に期待する以外、推測できていません。

最近の例では、コロナ前の10万給付マクロモデルですが、1年連続(10万×1.2億×12)の月10万給付でも物価上昇率は1.215、2年で1.436、3年で1.809、4年で1.751という算出もあります。コロナ下においての政策では、個人への給付や、中小企業の粗利分の損失補償など、弱者救済が良いと考えています。

現状の日本は、市場原理主義的な意味の新自由主義・リバタリアリズムに、傾いていると推測します。日本は民主主義国でもあるので、国民一人一人が正しい経済政策とはなにかを考えていくことが重要です。

内発性を大切にしよう(後編)

spoonというSNSで受けた質問です。

自分以外の誰からも評価されない人生をおくったとして、その人が内発的な行動をとりつづけるできるのか。また、その人は死ぬ前何を思うのか。

という質問を受けました。今回は、その回答内容を文章化したものになります。

 

今回の話は、人間の本性は基本的に善である性善説を前提としており、内発的な行動により、社会へ何らかの影響を与えるものと考えます。つまり基質的に善でない可能性があるサイコパス(反社会性人格障害)のような方は除きます。

 

①第三者から評価されない人生であっても、主観的に評価されていると感じる場合

この場合、内発的な行動をとりつづけることが可能です。アドラー心理学のように『自分が良いと思う行動』そのものを評価することで、主観的には評価されていると感じることができるからです。

「僕の羊を探して」という物語の引用ですが「自分の一生は役に立った」と死ぬ前に思えると考えます。

 

②主観的に評価されていないと感じる人生の場合

この場合の、評価されない人生というのは、評価の物差しが外発的な可能性があります。特に評価の物差しを他人に定量化されたものである場合、内発的な行動をとりつづけることは難しいです。例えば、偏差値60以上を高評価する場合、相対的に60以下を評価しないと考えてしまうことがあります。

「死ぬ瞬間の5つの後悔」という著作では、根本の原因は「自分の本心に向き合わなかったこと」にあると説きます。評価の物差しを他人に定量化されたものにすることは、自分の本心に向き合っていないと考えます。つまり後悔する可能性が高いと思います。

 

③内発的な行動をとっても、一切評価されない世の中の場合

この場合、社会が終わっていると考えます。損得のような外発的な行動だけでは世の中はまわりません。哲学者のアダム・スミスは他人の感情を心の中に写し、その感情を自分の中に起こす方向に動く「共感」の能力があると説きます。この「共感」の能力を使い行為が適切かどうか、適合性(propriety)を図ります。人間には、このような共感の先にある適合性の実感が必要です。

 

■最近の話

入試に主体性を持たせるために、主体性を定量化するという話があります。これは三島由紀夫の嫌う道徳の点数化とも言えます。

これらは中国の信用スコアや日本のジェイスコア推進と同様で、損得人間を量産してしまうと考えます。

中国がなんとかなるのは、中国はネットワークの国で国民が国を信用していないという理由も考えられます。日本は核家族ニュータウンが定着し国への依存が大きいため、定量化の問題は深刻になると考えます。

最悪の場合、スコアのために生きる人が多数派になると、人間関係のスコアが低いことが問題なるかもしれません。スコアを気にする人間関係は人間らしいと言えるのでしょうか。

サイコパスというアニメのシビュラシステムは、ある種の未来を予言しています。

▼シビュラシステム

サイマティックスキャンにより読み取った生体力場を解析し、人間の心理状態や職業適性や深層心理などを分析数値化するシステム。

サイコパスは、このシステムにより起こる問題を描いたアニメで、長期に渡るシリーズですので、それだけ多くの問題を描くことができるとも言えます。劇中でキャラクターが表現しているように、ベンサムパノプティコン(全展望監視システム)の行き渡った社会と考えます。

 

■共同体に必要な力

人はスコアのために動く、損得だけの世界で生きていくのは難しいです。損得だけの社会は、多くの人が人間不振になる可能性があります。

アダム・スミスの考えを発展させたフリードリヒ・リストは「生産諸力の理論」を唱えました。出てきた結果を価値とするのではなく、「モノやサービスを生産する力」そのものを価値とする方向性が、共同体の力になります。

全てを定量化すると、長期的な価値を見失ないます。例えば、大学における基礎研究は多くの場合、分かりやすい結果がでないので「選択と集中」では長期的に大きな成果を出すのは難しい、という指摘があります。他の例では、一見、何もできない人でも、その人の存在がセーフティーネットになります。それも大規模共同体のリスクヘッジと言えます。

 

■まとめ

繰り返しになりますが、損得のような外発的な行動だけでは世の中はまわりません。共感の能力を使い行為が適切かどうか判断し、その先にある適合性(propriety)の実感が必要です。私は、内発的な行動そのものを評価する、社会を作ることが重要だと考えます。

内発性を大切にしよう(前編)

■損得より内発性

損得感情のように外発的なものを大事にしたい気持ちは分かります。しかし、私は自分の内から湧き出る力である、内発的なものの方が遥かに大事だと思いたいです。

 

■偽物の内発性

実際には内発的な動機だと思っていても、

・承認欲(人から誉められたい)

・集団でのポジション取り

・自分の優位性の担保

のように、外発だか内発だか分からないものがあります。

▼アンダーマイニング効果

アンダーマイニング効果またはアンダーマイニング現象は、内発的に動機づけられた行為に対して、報酬を与えるなどの外発的動機づけを行うことによって、モチベーションが低減する現象である。

例えばイラスト活動をやっていたとして、徐々に知名度が上がり、お金を貰えるようになったとします。はじめはお金を貰えなくても喜んで描いていたのに、お金を貰えないとやる気が出なくなってしまいました。

イラスト活動ははたして、内発的な動機だったのでしょうか。(もちろんイラストでお金を貰うのは、正当な対価と考えます。)

 

■内発性か外発性かの境界は難しい

内発性か外発性かは、白黒ではなくグラデーションなことくらいは、誰でも気づくと思います。

自分が、生涯にわたって最も優先してやりたいことや、自分が死ぬ最後の日にやっとおくべきだったと思えることが、本当に大事なことかもしれません。

 

■人は自己実現に向かって絶えず成長する

私はマズロー自己実現の考えを、お勧めしております。自分の能力を使って社会に対して影響を与えることです。そして、そのような欲求を満たすことができれば、自分も周りの人も、持続的に安定した精神状態に向かうと考えます。

余談ですが、私の行っている創作活動は、社会欲求や承認欲求を超えて、自己実現に向かっているのです。だから、私は楽しいし、周りの人も楽しんでくれる人はいるはず。

長期的には、AI時代(シンギュラリティー)で、このような活動の割合が増えていくと考えています。今はコロナパンデミックで活動が難しいですが、その分インターネットを通して考えを発信できております。

 

■あくまでも自己啓発と考える

「嫌われる勇気」アドラー心理学のように、感情に目的があるという論理を聞きます。しかし、うつ病の人に「うつはうつになりたいからなるんだ!」と言っても当事者は納得しないでしょう。

うつ病は、モノアミン(セロトニンノルアドレナリンドパミン)の減少が仮説として知られていますが、これも仮説で実際にはもっと複合的な要因であると考えられます。

アドラーの「感情に目的がある」「承認欲求を捨てた方がいい」のように、シンプルな答えが流行りがちですが、現実には複雑なこともあります。

心理学というと学問的な担保があると考えられがちですが、多くの人が想像する担保ではないかもしれません。以下の記事で詳細に解説しています。

https://hrkbb914.hatenablog.com/entry/2019/04/05/004225

フロイトユングアドラーだけでなく、マズローのような心理学は、現代には当てはまらないことも多いです。あくまでも自己啓発の規範だと考えるのが妥当です。

 

▼まとめ

内発性は、簡単に身に付けることはできません。自分の内から湧き出るくらいの、大事なことは何か、追い求め続けなければなりません。その先には最高に充実した現実があります。

カルト教祖・信者の本質とサブカルチャー

■精神的な充足を求めて、カルトに足をすくわれないために

コロナ恐慌は時代の転換点であると考えておりますが、そういったコンテンツの転換期では、危険なカルトが生まれる可能性があります。

カルトを布教する人の母数は多いですが、失敗体験を積ませることで、カルトへの従属意識を高める効果も目的です。ですので、判断力が鈍ってなければ、足をすくわれる事は少ないです。しかし、教祖や幹部となりますと話は別です。

皆さんがカルト信者にならないために、今回はカルト教祖とカルト信者の本質に迫ります。また、今回の記事の根本アイデアは学者の受け売りで、言語体系と流れや考察が異なります。ご了承下さいませ。

 

■SFと終末思想

1950年代のSFは「真の黄金時代」と呼ばれます。冷戦や核戦争による人類の滅亡を反映した「終末もの」SF作品が多数生み出されました。

1960年代のニューウェーブSFは、SFを人間に関わる問題に対する文学的思索の手段として利用しました。またその運動が、SFと現代文学を橋渡ししたとも言えます。

 

■新新宗教新興宗教ブーム

日本人にも1950年代以降のSFの終末思想が、コンテンツにより根付いていると考えます。そんな中で起こったのが、1970年代以降に台頭してきた新興宗教ブームです。

当時、物質的に満たされた若者が、精神の充足を求めて入信していった側面があります。

オウムの麻原は、経典を翻訳した論理を展開しており、その知識は驚くほど深かったといえます。これは他の新興宗教団体には難しい芸当で、この献身的な有り方こそが、問題なのです。オウムの献身的な複雑性は、根元的な悩みの理由を求める若者に迎合しました。

現代の私たちから見れば、経典の身勝手な曲解は明らかですが、当時は情報も少ないため、曲解の指摘が難しかったと考えます。しかし、1980年代末期から1990年代中期の、一連のオウム事件以降、新興宗教の信者の囲い込みが難しくなります。

 

■宗教とサブカルチャーの共通前提

これは受け売りですが、

▼ヲタク=カルトは市民権得ることができない過剰なもの

▼マニア=既成宗教というのは市民権を得ることができるポピュリスティックなもの

という図式があります。

■宮崎事件以降のヲタクバッシング

宮﨑勤は日本のシリアルキラーで、1988年から1989年まで4人の幼女を誘拐、殺害しました。宮崎勤がヲタクであるという偏向報道からヲタクバッシングがはじまります。その市民権を得ていないゆえ、得体のしれなさが元凶です。

 

新興宗教の代替物としてのアニメ

そこで台頭してきたのが、セカイ系アニメーションです。2000年初めから名付けられたセカイ系とは、主人公とヒロインを中心とした小さな関係性の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、世界の問題に直結する作品群のことです。

世界を救う作品は、世界中を巡らなくてはならないが、セカイ系は、主人公の周辺のコミュニティで多くが完結します。

最近で言えば新海誠監督の作品、歴史的な代表作としてはエヴァハルヒ、マドマギのような系譜のアニメです。これらはオウムのような宗教的な深みがコンテンツに拡散したもので、世界や日本人の共通感覚に実装されています。

世界とは何なのかという問いは同時に、個人の根元的な悩みでもあるので、崇高で複雑性の高い答えが必要です。

セカイ系の原点である1995年のエヴァテレビシリーズは、新興宗教であぶれた、精神の充足していない若者を取り込みました。宗教の本質は根元的な悩みへの救いだと考えますが、それと同様にエヴァ自傷的な複雑性は、根元的な悩みの理由を求める人に迎合しました。また、同時期にラベリングとして、アダルトチルドレンのカミングアウトが行われたのも偶然ではないと思います。

 

■集団の共通感覚

集団の共通感覚を、維持するための本質を考えます。宗教やSFは共通して、答えを抽象化しているか、あえて隠す傾向があります。ですから多くの人にとっては、言語的な理解が難しいと言えます。分からないという共通の悩みに対して、複雑性の高い答えをくれるカリスマの存在が、集団の共通感覚を高めます。

余談ですが、 1960年の安保闘争、1968~1970年の学生運動の人も上の習慣で、集団の共通感覚を作っていたと考えます。

■共通感覚を高める危険性

カルトでは修行と称した達成感や、イベントに参加する未規定感を演出しています。更には現代催眠のテクニック、薬物など、様々な要素が、共通感覚をより強固にしていると考えます。

このことについては、より詳細なメカニズムを書いた過去記事がありますので、ぜひご覧くださいませ。

https://hrkbb914.hatenablog.com/entry/2019/03/04/224919

 

■カルト教祖に足をすくわれないために

コロナ恐慌は時代の転換点であると考えておりますが、そういったコンテンツの転換期では、新たなカルトが生まれる可能性があります。

今回の話の本質をまとめるなら、根元的な悩みから救ってくれるような、個人の悩みと世界の問題を関連付ける、崇高で複雑な教えをする団体には注意が必要です。

エンターテイメントとアート②

エンターテイメント業界に関わって長くなり、多くの問題を抱えた業界であると気づかされました。

私は動作優位で、多くのことを身体や映像で認知してしまう癖があり、言語表現は単純になりがちです。このため、エンターテイメント業界の問題提起は、言語表現が得意な方にお任せしたいのです。

しかし、今回掲げるエンターテイメントと芸術(Art)の問題を、業界人で訴えている人が少ないため、きっかけくらいになればと思い書き留めることにしました。

 

▪️エンターテイメント業界のパラダイムシフト(価値観の変容)

エンターテイメントと芸術の業界は非常に密接に関連しており、エンターテイメント業界が強くなることで、芸術業界にまで侵食してしまう可能性を考えます。この場合、市場原理主義が、芸術文化を破壊するのは想像できます。

更にシンギュラリティーの問題のように、加速度的にパラダイムシフト(価値観の変容)がおこることを考えます。私はエンターテイメント業界が芸術家にも大衆迎合を求め、何でもありの方向に進んでいくと考えています。とても個人的な話ですが、そのような光景を見ることが増えました。

少なくともエンターテイメントと芸術を管理する人が、エンターテイメントと芸術(Art)の線引きを理解しなければいけないことを、再確認しなければならない時代がきていると予見します。

 

▪️そもそも芸術とは

ルネサンスギリシャ時代の芸術を理想として掲げる、静的な新古典主義に対して、台頭してきたのがロマン派と写実派です。

ロマン派は、人の心に傷をつけるような、動的なものです。写実派は、ロマン派のアンチテーゼとして、ありのままのを写し出すものです。

保守と改革の戦いに対して、ナポレオン三世は、1863年にSalon of the Rejectedを開きます。

芸術を知らない民衆に芸術的な正しさ求めるこの展覧会は、多数決によるポピュ(ラ)リズムそのものである気がします。

この展覧会以降、ロマン派の技法と、写実派の方向性から、印象派が台頭します。

今まで、ルネサンスの絵画技法を使い、宗教、神話などを題材にしていたのに対して、印象派は人の生活・風景を題材としてリアルタイムの芸術を目指しました。

はたして、Salon of the Rejectedの派生としての現代美術は、本質的な芸術と言えるのでしょうか。

 

▪️ショービジネスと芸術(Art)

そもそも芸術でないのなら、芸術の考え自体がショーの妨げになりますから、割り切らなければなりません。

Recreationにおけるショーというのは、お客さんあってのもので、演者とお客さんの、みんなでつくりあげるものです。

お客さんの立場に立って、同じ目線で共感を生むことが一般的です。しかし、過度に一般化された共感のための技術は、自動機械のようにテンプレ化された演者を、大量に生み出してしまいます。

 

▪️体系化された知識の共有が単純化を招く

一時期、「寿司職人が何年も修行するのはバカ」という発言が話題になりました。今は体系化された技術を向上させるための知識が、YouTubeなどによって、ますます一般化されています。

そういう意味で、修行というのが古いというのは分かりますが、修行によって身につけることのできるものは、寿司の技術だけではないという反論もあります。

しかし私は上記の発言を、「人の思慮を深くする経験は、修行以外でも身につけることができるのだから、修行だけに拘らなくてもいい」という解釈もできると考えます。

機会費用』という経済学の考え方もありますが、修行以外で教養を身につけ、体系化された知識で寿司を握るのが、効率的であるとも言えるかもしれません。

それでも、強制的に教養を習得させる修行と違い、全ての人が業界に敬意を払い、教養を習得するとは限りません。体系化された知識の共有は、教養を無視した業界の単純化を、招く可能性があると考えます。

 

▪️問題意識を忘れない

全ての人が、芸術(Art)を理解する必要はありませんが、エンターテイメントの業界が市場原理主義によって、芸術を駆逐してしまうという問題があります。現状でも、芸術の教養を持たなくても、エンターテイメントビジネスの管理者になれてしまいます。

体系化された知識の共有などにより、ますますこれを加速させると考えます。私自身、この問題意識を忘れずに活動していこうと思います。