スマイルドーナッツの雑記

すべての人にとって、充実した 楽しい 世界を作るために

甘えているのは誰だ?

▪️前書き
そもそも国民である時点で、人は何かしら他人に「甘え」ているものですが、
今回は「他人を非難するための言葉としての甘え」について、思うことがあったので書きます。

「障害は甘え」
という物言いは過激で、避難されることはあるだろう。
「もっと辛い人がいるんだから甘えるな」
「みんな辛いんだから甘えるな」
という物言いをする人もいる。
実は「障害は甘え」のような過激な発言と、本質的には近いこともあると、留意する必要があると考える。

「心」なんてものが存在しないように、甘えもまた抽象度の高い概念だ。障害という言葉も、社会とのマッチングが悪い場合、線引きされるもので、抽象度が高い。


▪️定型発達症候群というジョーク
定型発達症候群というジョークがある。
例えば、協調性が高いことは多様性の面で危険である。
定型という線引きの上の存在が、社会構造に大きく関与しているため、非定型という線引きの下の存在が生まれていることも忘れないで欲しい。

つまり「~は甘え」と発言している側の人が定義する「甘え」は、「~は甘え」と発言している側が作り出している可能性がある。


▪️「甘えるな」がただの八つ当たりである可能性
辛さの定量化が難しいという科学的な前提も考慮に入れず「甘え」と言うのなら、それは弱者への八つ当たりである。


▪️八つ当たりをなくすのは難しい
そもそもこうした八つ当たりをなくすのは難しい。それは八つ当たりも含めた、いじめが人間のシステムであるからだ。
「みんな辛いんだから甘えるな」
という言葉が示すように、日本は同質社会であり、いじめという現象が発生しやすい。
ドーパミン仮説
幸せホルモンと言われる。いじめ加害者にとって
出る杭を打つのは正しい行為であり、正しい行為をするとドーパミンが出る。
オキシトシン仮説
愛情ホルモンと言われる。仲間意識を強めるが、
その分、排他的になってしまう。
セロトニン仮説
安心ホルモンと言われる。不足するとリスク回避により、同調性が強まる。特に日本人は不足しがち。


▪️集団にはホメオスタシスが働く
科学が、甘えやいじめの正体を暴くことがあっても、集団にはホメオスタシス(生体恒常性)が働き、更新が妨げられる。人間のシステムに抗うのは難しい。


▪️「かけがえのないサンドバッグ」になってないか
かけがえのないサンドバッグとして生きることに喜びを感じるのならよいが、無知ゆえの無自覚は気の毒だ。あなたは本当に甘えていますか?


▪️最後に
「~は甘えるな」という発言をする人が、相手の立場を俯瞰して考えようとせず、八つ当たりをしているだけと判断したなら、壊れる前にすぐさま逃げるべきだと思う。壊れた人間は叩いても治らない。

そもそもその甘えは、何によって作り出されたものなのか。前述のように、「甘えるな」と発言している側の人が作り出している可能性もある。自己責任という単純合理に陥る前に、一歩立ち止まって考えてみませんか?


人間ってのは、DNAと幼少期の環境で、大枠は決まるよな、という仮説

■最初に

人間は、DNAと幼少期の環境で、大枠は決まる。

 

今回は幼少期の環境に、スポットを当てて、

いくつかの説を紹介していきます。

ブログなので、無駄に大げさな表現も使いますが、

温かい感じでよろしくお願いいたします!

 

■幼少期のストレス

ストレス過多の環境で育った子供はどうなるのか。

慢性的なストレスにさらされると、

 

扁桃体樹状突起が肥大して、
前頭前野樹状突起が萎縮する、

ことがわかっている。

 

扁桃体が敏感であるというのは、感情移入の能力の、高さに結びつく。
ある意味では、情緒的な人間とも言えるかもしれない。

ある研究では、記憶力に優れ、能力が高くなるとの報告もある。

 

しかしな。

 

扁桃体ってのは、ノルアドレナリン

ストレスホルモンであるコルチゾールの、

濃度が高まると、神経系を過敏にして、

不安や恐怖の記憶を強める厄介なものだ。

 

つまり、よくいう不安障害とかうつ病とかになりやすくなる。
病気にならなくとも、強い、不安や恐怖と戦い続ける、一生を送る可能性もある。

 

幼少期の教育が、人の一生を大きく左右させるのは、決定的な事実だ。

 

 

アダルトチルドレン問題と無条件の愛

アダルトチルドレンとは

成人後も、親子関係で何らかのトラウマ(心的外傷)を背負った方のことを言います。

 

通常、アダルトチルドレンの原因として、虐待やネグレクト(育児放棄)が挙げられる。しかし、原因として意外と気づかれにくいのは、親から、「条件付きの愛」ばかりを受け取っていた場合だ。

 

「ママパパのいうことを聞くのが偉い子」→

 

これで子供が安心するのは難しい。

このように、子供が安心できない、状態の家庭のことを機能不全家族という。

具体的には弱い立場のものに対して、常に精神的なダメージが付きまとう

状態にあるような、欠陥を抱えた家庭のことをいう。

 

ただ安心がほしい。

ただ認めてほしい。

 

大人になってもこういうことをいう人は、無条件の愛を受け取ることができずに

自己肯定感が育まれなかった、からなのかもしれない。

 

無条件の愛を受け取ることができれば

子供は自信をもって外に羽ばたける可能性が高くなる。

 

無条件の愛があれば、それが自信の根拠になる。

一見根拠のない自信を持っている人に、こういう人は多い。

 

どれだけ苦しく、どれだけ辛い人生でも

いっぱいの。無条件の愛があれば

 

「生まれてきてよかった」

と言えるのかもしれない。

 

 

■発達性トラウマ障害とは

発達障害は定義上、先天的な特性である。

 

ところが最近、『発達性トラウマ障害』という、後天的に発達障害ADHD)様の症状を示す、言葉を見かけるようになった。(現時点では正式な診断名でない)

 

トラウマとは、記憶が扁桃体や海馬で、適切に処理されず、意識下に残ってしまい、それが悪影響を及ぼすことをいう。

 

また、単発の要因(人の死やそれにかかわるできごと)や、継続的な要因(暴力、虐待、ネグレクト、いじめ)によって、

 

扁桃体の過剰反応によるストレス増大

・ストレスによる海馬の機能の低下

・脳のフィルタリング機能の低下

・感覚情報が視床で乖離

 

が起こり、トラウマ障害である、PTSD心的外傷後ストレス障害)が引き起こされることがある。下記に症状を示す。

 

・過去のトラウマと似た状況の回避

・フラッシュバック(再体験)

・パニック、過緊張、感覚麻痺

・それらが継続して続く

 

また、

これだけでなく上記理由や、ワーキングメモリーへ、

トラウマ回避、フラッシュバック、パニック、過緊張などが、浸食することにより、不注意性、多動性、衝動性といった、発達障害ADHD)様の症状を示すとのことだ。

 

これを『発達性トラウマ障害』と呼ぶ。

 

発達障害と違い、環境に原因があるので、環境により、悪化させないためにも、早めにこの概念を知る必要がある。

 

しかし

 

発達障害により、トラウマを抱えたのか?

●トラウマにより、発達障害様の症状がでているのか?

 

上記2つのグラデーションである場合、その分析を行う必要があると思う。

発達障害者は、トラウマを抱えやすいだけに、診断は難しい。

そのためにも、認知度を上げる必要がある。

 

 

■ストレスの感受性と仕事

人間は、DNAと環境で、だいたい決まる。

唯物的で、個人的には悲しく思うが、

根拠に再現性が重視される現代社会においては、

本質に近いと、多数の人は考えるはずだ。

 

以前、仕事における本質はストレスであると、書いたが、

前述のように、ストレス感受性は、偏桃体を筆頭に、

脳神経の反応で説明できる。

 

ストレスと現実の事象は、必ず比例するわけではなく

仕事における大変さの定量化は難しいといえる。

雑な物言いをすれば、脳神経の反応が、

人間が知覚できる、世界の本質ともいえる。

 

それなのに、自分の大変さと、他人の大変さを、

比較することで、雰囲気が悪くなっている光景を、目にすることがある。

 

ほんとは、DNAと環境で、大枠は決まっていることに

気づいてるのではないか?

 

「頑張れないのは、偏桃体が敏感であるせい」

「頑張れたのは、偏桃体が鈍感であるおかげ」

資本主義社会においては、この物言いが、生産性を落とすことになる。

 

大変さの定量化は、資本主義社会にとって都合がいいため、

便宜上、用いられているものだ。

 

■最後に

人間は、DNAと幼少期の環境で、大枠は決まる。

これに対する反論は、宗教、スピリチュアル、量子論など

様々な学問で、説明できるが、素人目に見て、

どれも再現性という一点においては、不完全に見える。

 

「電子は、見ているときは粒子だが、見ていないときは粒子ではない」
量子力学は述べているが、
日常的でマトモな思考をする人であれば、
「見ていないときも粒子に決まっている」
と考えるだろう。

ようは、「見ていないときも粒子」なんて言うのは、
「ボクの彼女は、ボクと会っているとき、いつも清楚な人だ。
 だから、ボクと会っていないときでも、清楚な人に違いない」
と言っているのと同じだということだ。

 

それでも何か、超越した意識のようなものが、

あることを期待してしまうのが、人間で、

そこに、人間の悲劇と可能性がある。

 

 

 

 

多様性と同質性についての理解は、時代の流れと関連付けて、吟味するとよいかもしれない

常識は間違ってるとか、

社会はおかしいとか、

そう思っている方はいますか?

 

もうちょっと具体的な話をします。

全体主義による同調圧力により、極端な例だが、いじめ、自殺、過労死が起こる。

そりゃひどい話だと感じる方は多いのではないでしょうか?

 

このようなこともあり、

同質性は悪とし、

多様性を善とする。

最近はそんな風潮があるように感じます。気がするだけかもしれないが。

 

同調圧力に苦しめられてきた身ですから、同質性にデメリットがあることは理解していますが、俯瞰してみれば、善悪で分けるのはちょっと極端すぎると思いますね。

 

私は多様性、同質性のメリット、デメリットを、時代の流れと関連付けて、吟味することで理解し、自分の行動に生かすことが重要であると考えています。

 

■例えば近代の日本では

昭和の高度経済成長期では、円安などにより、低コスト高品質の製品を均一に大量生産する、世界からの需要が高まった。

・結果、投資ブーム→企業間競争は激化した。

・重化学工業原料の加工は→石炭より安価な石油+原発事故の影響→石油ブーム→第三次産業活性化

・競争社会の解決策→終身雇用、年功序列制→従属意識改革

・国民の生活レベルの向上→消費革命→三種の神器(テレビ、洗濯機、冷蔵庫)→マスメディア→進学率上昇や3C(カラーテレビ、自家用車、クーラー)→マスメディア活性化

・交通網整備(社会資本増大)→自家用車需要増大

 

高度経済成長期では、低コスト高品質の製品を均一に大量生産する必要があった。国民に対して「右へならえ」や「全体主義」を教育することは、合理的であると言える。

 

しかし、上記のように企業間競争激化、第三次産業活性化、従属意識改革、マスメディア活性化などにより、あらゆる者が「右へならへ」や「全体主義」を善としたことで、結果として国民への扇動が、洗脳に近い状態になっていたように思う。

 

高度経済成長期の価値観は、機能しなくなりつつあるが、未だにその価値観を、取り去ることができない国民は、それなりにいるように感じる。この場合、同質性が善、多様性が悪というように極端な発言をすることもある。

「みんな頑張ってるんだから、あなたも同じように頑張ってね」

怖い、、

 

■現代では

現代の日本では、インターネットの発達により、社会の洗脳から解け始めている方は増えたように思う。しかし、最初に述べたように、同質性が悪、多様性が善という発言に近い、極端な発言をする方もいる。

「みんな違うことを認めましょう」

状況によるが、場合によっては脅迫じみた発言になることもある。

 

このような極端な発言を、それなりの数聞くと、実はメディアが変わっただけで、一部の発言を盲信させるような、ある種の洗脳は、いまだに起こり続けているのかもしれない。

 

■洗脳を解くには

「1つの物事を信用するな」とはありふれた発言だが、なんだかんだ、その道の権威や専門家に言われれば、盲信してしまうこともあるかもしれない。

 

セカンドオピニオンという言葉がある。特定の専門家以外の第三者の専門家の意見を求めるという医療用語だ。専門家であっても、個人に適切な発言をできるとは限らない。

 

沢山の信用のおけるデータや文献を吟味し、自分の意見として落とし込む必要がある。多くの方は、物量をこなすことで、質にかえるそうだ。量を質にすることで、自動的に能力が身につくらしい。

私は情けないが、あまりできていない・・・

 

■時代の転換点を見る

諸行無常という言葉があるように、万物は流動的なもので、時代に必要な価値観も移り変わりゆくものだ。(とはいえ、絶対の価値観もありだとは思いますが。)

 

上記で、高度経済成長期の話をした。この時代の流れに乗って、極度の成功を収めた方もいる。また、時代の転換点で、必要な能力を持っていため、極度の成功をおさめることもある。

 

これはある意味、時代の転換点に人がいて、それが極度の成功者と呼ばれている、とも言える。(ある脳科学者は、この成功者を非典型的な知性に優れている、と表現していた。exスティージョブズ

 

極度の成功者になるのは難しくとも、

洗脳をとくことで、少しの成功を収めることはできるかもしれない。

 

2045年のシンギュラリティ(AIの技術的特異点)がパラダイムシフト(認識、思想、価値観の変革)をおこすことはあまりに有名な話だ。

パラダイムシフトは紀元前10万年間の石器、紀元前1万年間の農耕、1800~1900年の産業革命、2000~2010年の情報革命、2045年のシンギュラリティと間隔が短くなってきている。

それだけ時代の変化は加速しているということだ。

 

次の時代の転換点に必要な能力は、ざっくりいうと

・先端テクノロジーを使いこなす能力

・先端テクノロジーに代替されにくい能力

だと考えているが、具体的な能力に関しては、様々な意見があり、正解と呼べるものを判断するのは難しい。必要な能力の話については、同カテゴリで話していますし、今後も追求していく予定です。

hrkbb914.hatenablog.com

 

 

 

■最後に

次の時代に多様性と同質性、どちらが重要な価値観になるのかは、現段階では分からない。今のところ多様性に傾きつつあるが。

 

これは重要なテーマであり、議論されることも多いだろうが、様々な状況において、極端な発言、盲信は危険だと考えている。繰り返しになるが、これらは時代の流れと関連付けて、吟味することで解決できるかもしれない。

 

 

 

 

とらわれなくても問題ないもの(ブログ更新)にとらわれない生き方

 

人間は以下の2つの時のみ行動できる

 

・切羽詰まってやらなければならない時

・自分が納得いく理由を見つけた時

 

ってどっかの心理学者が言ってた。

何かにとらわれて行動するのは「切羽詰まってやらなければならない時」と思い込んでいることが多いように思う。

 

たいていの人間は、何かに追われて行動するのはストレスになるはず。

 

ストレスは本来、外敵など、命の危機に瀕したときに回避するため、備わっている能力だ。しかし、人間は進化の過程で、前頭前野を発達させコミュニケーション能力を高めた結果、新たなストレッサー(原因)を作り出してしまった。

 

何かに追われるといっても、命の危険を及ぼすようなものはほとんどなく、実際には自分で自分を追い込んでいることも多い。

 

まあそれが悪いこととは限らないけど。現代社会では、人生は辛いもんだって、色々と当たり散らしてる人が多いから、言ってるほうも、言われてるほうも、ストレスはそうとうなもんだろうと思う。そういった気の毒な状況は、改善して欲しいという願いがあります。

 

■ブログについて

例えばブログ。ブログ書いてない人はTwitter、インスタでもいい。

他のひとのブログとかを見てると、どうもSNSのようなコミュニケーションツールとしての側面が強く出ているように思う。こういった側面は、前述のように新たなストレッサーを生み出す。

 

・更新が止まったこと、しなかったことに対するわだかまり

⇒多分みんな気にしてないから、気にしなくて大丈夫。

・馴れ合いの批判

⇒馴れ合ったっていいじゃない人間だもの。

・特定の業界内(ブログ業界)のルール遵守

⇒業界のルールなんて、その業界で影響力のある人に、影響を受けてできたものが多いのだし、業界外からみたらあきれるくらいどうでもいいことは多い。

はてなブログならスター、ブックマークの文化の理解

⇒私もよくわかってない、特に基準もないが、面白かったり、その時の気分で。

 

正直SNSの文化についてはよくわかっていないので、思い付くストレッサーはこんなもん。

 

創作っていうと言い過ぎなきもするけど、何かを生み出す行為は色々と消耗するものだ。ブログだって例外じゃない。私は全く気にしてないと言えば、嘘になるが、ただでさえ消耗するのだから、細かいことは気にせず、楽しくやればいいんじゃないかと思う。

 

■よく言われる、有象無象な意見ですが

『自意識過剰な人は多い、人は案外自分を見ていない』っていう使い古された言葉がある。あくまで自分本位に、やりたいことをやりたいときにやるってスタンスでいけば、ストレスはあまりかからないから、他人に期待して、当たり散らすこともなくなるかもしれない。

 

それでも、人は誰だって本質的に孤独だから(似たようなことをアインシュタインも言ってた)、分かり合えないこともあるかもしれない。でも、ちょっと寄り添えば解決する問題も多い。

 

■書きたいときに書く

楽しくやりたい人は楽しくやる。

本気でやりたい人は本気でやる。

ただでさえ、消耗する。切羽詰まってやらざるを得ないことは沢山ある。

好きにできることくらいは好きにやった方が、楽しいのではないかと思ったのです。

 

 

根拠のない批判をするひとの心理(音楽を例にします)

 

幼少期、私の周りには音楽に対して批判する方がたくさんいました。

 

「この曲は悪い曲」

 

このような発言をする方に、なぜそう思うのか伺うと大抵、

「なんとなく」

とかえってきます。

当時の私は理由を説明できないのに、

何故批判できるのか不思議に思っていました。

 

今の歳になっても、やはり根拠なく批判する人はいます。

 

■根拠のない批判

「酸っぱいブドウと甘いレモン」のように防衛機能の合理化や(手に入らないものに対する不満)、集団心理、群集心理による攻撃辺りが多い気がします。

 

あるいは、己の知識や経験からくる直感を信じることができる、能力の高い人なのかもしれません。それでも人間、よい評価はまだしも悪い評価に対しては、理由が欲しい方は多いかと思います。

 

■根拠のある評価でも

私は物事の評価を下す立場になった時は、あらゆる角度から物事を視れるように、知識や経験を貪欲に取り入れるようにしています。

それでも正しい根拠は、状況、立場、見方によっても変わってくるので、中々ストレートな評価を下すことは難しい。

 

根拠ある評価の例として、クラシック作曲家の格の違いについての話。

チャイコフスキーやプッチーニは格の低い作曲家らしい - ホウ砂に吹かれて

上記ブログの感想が面白かったので紹介させてください。業界の知識の理解による品位を「教養」と定義できることは、格調高い業界ゆえなのでしょうが、怖く感じます。

 

根拠があっても、見下すような悪い評価については、いい気分がしないものです。

 

■音楽を楽しもう

あらゆる楽器を練習することで、音楽理論の造詣が深まることに気がつきました。

 

「この曲は悪い曲」

 

と発言している人を冒頭で紹介しました。音楽を知った上で見下す人もいるかもしれませんが、音楽を知らないだけかもしれません。

 

伴奏、メロディー楽器である鍵盤楽器やギターを練習すれば、コード進行、メロディーの構造を理解できる。

メロディー楽器でも特に音程が繊細な、バイオリン科の楽器を練習すれば、Hz単位での音程を学べる。(金管木管楽器でもOK)

リズム楽器であるドラム、ベースやパーカス、その他打楽器を練習すれば、バンドやアンサンブルで、いかにリズムが重要かを学べる。

マニアックな楽器を練習すれば、音楽の表現がいかに広大かを学べる。

 

いままで、つまらない、悪い曲だと思っていたものでも、音楽の造詣を深め視野を広げることで、素晴らしい、面白いと思えるようになるかもしれません。

 

わざわざ楽器を練習することが面倒な人でも、カノン進行や王道進行についてチラ見しとくだけでも、視野が広がるかもしれません。

代表的なコード進行【カノン進行、王道進行、小室進行】

 

■根拠のない批判をせずに、根拠のある評価をするには

根拠のない評価をする方は、上記の防衛機能の合理化や集団心理、群衆心理にとらわれている方が多い。ここから解放されるには、あらゆる分野の知識と経験を貪欲に取り入れ、視野を広げるのが効果的。

 

でもそんなことしたくない人って多いのかな?

井の中の蛙は井の外を見なければ、一生幸せに暮らすことができる」

ものだし。批判をして人を見下すことで、幸せになってる人もいる。

 

それでも私は、皆さんに視野広げることの重要性を知ってもらいたいと思うし、もっと多くの人が意識的に視野を広げることができれば、もっと多くの人が幸せになれると思うのです。